どういう支援が必要なの?

1人1人にあった支援、これに尽きます。

社会経験豊富な方ならば、行政の支援策を説明したパンフレットをお渡しして、自力で申請していただくだけで終わります。働ける方は就労へ、それが難しい方は生活保護で、自分らしい生活をいとなむことができます。
しかし、多くの方はそうではありません。

制度をよく知らない方が生活保護を申請しようとして役所の窓口に行っても、あれこれ詮索され、嫌みを言われ、申請しないように仕向けられることがしばしばあります。また、「相部屋の寮は耐えられない」とおっしゃる方にしばしば出会いますが、その中には診断を受けていない発達の障害で感覚の過敏のある方がいらっしゃいます。それをうまく説明できないと相部屋の寮に入るよう指示され、多くの場合、失踪してしまいます。これらの方々には、支援者が同行して、行政との折衝のお手伝いをする必要があります。

アパートで暮らし始めてからも、仕事や日中活動、毎日の家事、体調の変化への対応、孤独に陥らないための仲間や居場所など、さまざまなモノ・スキルがないと安定した自分らしい生活はいとなめません。家族がいて社会生活をいとなんでいる方にとってはあって当たり前のこれらを、1回すべて失った方が取り戻したり新しく作り上げたりするのは容易ではないのです。そのような方々を1人1人支援していくには滴が石をうがつような忍耐が必要とされます。

 制度の谷間とは?

私たちが支援している方の中でもっとも大きな困難を抱えられているのが「制度の谷間」に落ちて「ホームレス」になった方です。

福祉の「制度」は、もともと「困難を抱えた誰か」のためにつくられたものですが、それが固定化すると逆に「制度」が人を選ぶ――その「制度」が認めたタイプの人しか助けない――ということが起きてきます。福祉の「制度」と「制度」のあいだに、どの制度からも見捨てられた人たちが落ちる「谷間」ができるのです。

あらゆる制度には適用の条件があるため、福祉の「制度」と「制度」のあいだに、どの制度からも見捨てられた人たちが落ちる「谷間」がある。

たとえば、ある人が「困っている人を助けよう」と思ったとき、次にやってくるのが「誰から助けるべきか?」という難問です。そしてほとんどの場合、人は、わかりやすく目に見えるタイプの困難を抱えた人から助けます。そして「見えにくい障がい」「理解されにくい悩み」「共有されにくいストレス」などで困難を抱えている人は後回しにされるのです。ここに「谷間」ができます。

長期間路上生活を続けておられる方の多くは、このような見えにくい困難を抱えて、誰からも助けられず、路上しか生きる場所を発見できなかった人たちです。
制度の谷間に落ちてもがいている方々であるといっていいでしょう。
そして、そのような方々が心身ともにぼろぼろになって、最後の力を振り絞って「制度」に助けを求めたとき、「制度」は疲れ果てた人々に対して、「自分がどのように困っていてどうして欲しいのか説明せよ」と迫ります。そして「制度」は、その説明に満足できないと「甘えてる」「我慢しなさい」「がんばりなさい」といって見捨てるのです。
私たちの経験では、そのような方々が自分の困難を客観的な言葉で語れるようなるまでには、長い回復の期間が必要です。

たとえばこんな方がいらっしゃいました。
50代の男性です。路上生活から生活保護を受けられましたが、ケースワーカーや病院との約束の時間を守れず、注意されると失踪→生活保護廃止を繰り返していました。TENOHASIの生活相談に来られ、シェルターに入られました。半年近くシェルターでおつきあいした結果、若年性の認知症であると判明。現在は介護保険のヘルパーを利用しながらアパートで暮らしています。
もしも、支援者(通常は家族)と居場所(シェルター)がなくて、彼の認知症を発見したボランティアの医師がいなかったら、いつまでも路上から脱出できなかったでしょう。
制度が存在しても、誰かがつなげなければ存在しないのと同じということです。

私たちが日々出会う方々は、「制度」が認めてくれなくても、現実に困難を抱え、苦しんでいます。
ここに、「制度」が何といおうと、日々発生するニーズとトラブルに対応していくという困難な闘いが続けられる必要が生じるのです。

*「制度の谷間」とはもともと「難病指定を受けていない難病の患者」や「確定診断がつかないために援助を受けられない患者」の方々の生きづらさに対して使われるようになった言葉です。

 自己?+責任?

ホームレス状態に陥ったのは自己責任であるか、あるいは社会または政府の責任であるか…という議論があります。
哲学的には果てしない探究を呼び込むトピックです。

まず、人は生まれつく環境は選べません。
人間は不平等で、誰もが能力、やる気、家族に恵まれるとは限りません。
日本国憲法は国民すべてに生存する権利を保障しています。
しかし、権利を利用する能力が不平等なのです。

ただ、生きたくないような環境しか与えられなくても、まずは自分で変えられることがないかと考えてみることは、生きていく上で役に立つかもしれません。
国際調査のデータでは、日本は年間約3万人の自死者をうみ出しながらも「生活困窮者を国が援助すべきではない」と回答する人が世界最高水準の38%に上る(「増税は誰のためか」神保哲生他2012)不思議な国です。

皆さんはどのように考えられるでしょうか?