プロフィール例

「制度の谷間」に落ちるということがどういうことなのかを実感していただくために、私たちが出会った方々の事例をご紹介します。

*皆さんから聞き取った内容をもとに典型的な事例に再構成しました。
*モデルになった方の承諾を得ています。

生きる理由が問われた
☆「父親からバットで殴られていました。肉親が相次いで自殺し、再起をしようとした寸前で詐欺にあい家を失いました」。生活保護を知らなかったそうです。精神疾患を発症して死ぬしかないと思いつめられていたときにTENOHASIに出会い、生活保護で入院。退院後は、アパート生活をされています。「アパート生活も路上生活も、苦しいのは変わらないのですね」とおっしゃっていました。
自分が困っているかわからない
☆極貧家庭で育ち、両親から「早く働いて仕送りをせよ」と強要されていたそうです。面倒なことにならないように、いわれたことには何でもハイと答える習慣が身につき、自分が困っているかどうかもわからなくなりました。疲労や空腹をぼんやりとしか感じられず、ボロボロになっても働き続けようとしました。また噂話を真に受けてパニックを起こす障がいもありました。TENOHASIの炊き出しで出会い、現在は生活保護でアパート生活をされています。
義務教育を受けたことがない
☆「義務教育は受けたことがない。自分の名前しか(文字は)書けない。山奥で牛の世話をしながら生きてきた」とおっしゃっていました。午後3時に待ち合わせをしたら朝の9時からその場所で待っておられました。TENOHASIのシェルターにご案内しましたが、いつの間にか、どこかへいなくなっていました。
父親の暴力から逃げてきた
☆「小さいころ、父親から暴力を受けていました。逃げるために家出を繰り返しました。あるとき、母親が自殺していたのを知りました。私は覚悟を決めて、公園で暮らすことにしました」。父親はこの方の障がい者手帳を作り、障がい者年金の手続きをしていたことが、あとからわかりました。しかし、その年金がご本人の手に届くことはなかったそうです。TENOHASIの支援で生活保護を申請し、住居を確保。現在、年金を取り戻す手続きもしています。
特殊学級を出て
☆中学の特殊学級(いまの特別支援学級)を出られましたが、計算が全くできず、いつ怒られるかといつも不安だったそうです。「子どもや動物のように、お金のない世界で生きたい」とおっしゃっていました。 工場に就職した10代のときに、同僚から、酒とシンナーを教えられ「死ぬ一歩手前までいった」。両親が亡くなったあとは、兄弟から見放され路上生活に。それから20年あまりを路上で過ごすなかで、いろいろなタイプの施設にも入ったそうですが、「人間関係が怖くなって」無断で施設からいなくなることを繰り返しました。TENOHASIの夜回りで出会い、現在は、金銭管理と服薬支援によって、アパート生活をされています。
ごみ屋敷
☆軽度の知的障がいがあり、自衛隊で働いた時期もあったのですが、精神疾患を発症して、長いあいだ精神科病院に入院されていました。退院後「いろいろあって」路上生活になったそうです。いろいろと、というのはどうも、「部屋の片づけができない」ことだったようで、部屋がごみ屋敷になって、追い出されてしまったようです。 TENOHASIの支援で生活保護でアパートに入り、ボランティアスタッフが入れ替わり立ち替わり部屋の掃除を手伝っています。最近は、公的なサービスも利用できるようになりました。
アルコール依存症
☆「刑務所を出たあと、まじめに何十年もの間、同じ会社に勤めた」が、いつまで経っても正社員にしてもらえなかったそうです。しだいにお酒の量が増え、依存症になって路上生活に。TENOHASIの支援で生活保護を受けてアパートに入居されましたが、聴覚が過敏で、隣人の物音が気になってストレスになりました。お酒はやめられず、現在は長期入院となっています。
裸で路上にいたお婆ちゃん
☆70歳を超えた女性の方と、駅の地下で出会いました。裸で寝ていました。両親の残したアパートを経営されていましたが、幻覚妄想の統合失調を発症して入院し、その間にアパートが人手に渡ってしまったようでした。本人は、今でも自分のアパートがあると言っています。TENOHASIの支援で生活保護を受けて精神科病院への入院となりました。退院後は、介護を受けながらアパートで穏やかに暮らしています。
単身生活の認知症者の行方不明者は多い
☆アパートで単身生活をされていましたが、認知症が悪化してアパートに帰れなくなってしまい路上生活となりました。このような認知症の方が公的な支援を受けるためには介護保険の申請をしなければならず、そのためには住所の設定が必要です。しかし1人暮らしができない認知症の方が入居できる部屋などありません。とりあえずTENOHASIのシェルターで保護して生活支援をし、今は介護保険を利用して老人施設で生活されています。
難病だとわからず、いじめを受け続けてきた
☆皮膚の難病で、精神疾患の合併症もおもちでした。その皮膚のために、ひどいいじめを受けてきたとのことでした。しかし、誰にも病気を発見されず、本人も病気だとは知らずに生きてきました、簿記の資格も取っていたのですが活かすことはできず、路上生活になりました。そのときに偽装結婚をもちかけられましたが、頼まれると断ることができないため言われるままに偽装結婚して逮捕されてしまいました。出所後、TENOHASIの炊き出しで出会い、病気がわかりました。今は、医療を受けながら作業所に通っています。
余命3か月
☆いつお会いしても、スーツにネクタイの粋な服装をしていた方でした。10年間、空き缶を拾って路上で自立生活をされてきました。いくら支援を申し出ても断られてきましたが、ある冬の日、公園で倒れられたので病院にお連れすると、余命3か月の末期がんと診断されました。 手術を受けて体調は良くなりましたが、その病院には長くいられず、次に移った病院ではベッドに拘束されるような扱いを受けました。そこで、TENOHASIのシェルターで迎え入れ、24時間、ボランティアスタッフが交代で見守りました。おおいに食べて、煙草を吸って、大好きな将棋を指す、という生活を続けられ、一緒に故郷への旅にも行きました。いよいよ起きられなくなったときに、医療相談ボランティアでもある医師の病院が受け入れてくださり、最期まで自分らしく過ごされました。
自死された方
☆刑務所、精神科病院、路上生活、施設とのあいだを、何十年ものあいだ、行ったり来たりしたとのことでした。3度結婚されていますが、いずれも続かなかったそうです。知り合ってから3年ほどおつきあいしましたが、ある年末の夜回りで「年が明けたらもう一度福祉事務所に相談に行きましょう」とお話しして別れた翌日、電車に飛び込こんで亡くなりました。70歳の誕生日でした。あの日に、どこかにお泊めすることができたら自死されることもなかったかもしれませんが、その頃のTENOHASIはシェルターを持っていませんでした。私たちが、シェルターの運営を続けている理由です。
救急車に乗らなかった
☆どこかの病院から無断で出てきたようで、池袋の路上に倒れていました。頭の手術をしたばかりのようで、糸が縫いつけられたままでした。言語は不明瞭でどこの誰かわかりませんでした。救急車を呼んだのですがかたくなに乗車を拒まれたので病院にお連れすることができず、やむなく公園にテントを張って交代で介護をしました。会話はほとんど成立しなかったのですが、体を拭いてさしあげると何度も「ありがとう」と言ってくださいました。何度も病院に行くよう説得しましたが拒否され、やがて意識がもうろうとしてきたときに救急車で病院へ。翌朝に亡くなりました。最期まで、どこの誰であったのかわかりませんでした。
認知症の父と統合失調症の息子
☆親子で路上生活をされていました。何らかのトラブルに巻き込まれて東京に逃げてきたそうです。東京に逃げたあとは、父親が日雇いなどをしながら、障がいのある息子を養っていたようでした。しかし、仕事がなくなって路上生活に。父親は認知症になって行方不明になり、息子さんは駅に取り残されたようです。それから2年間、息子さんは駅の同じ場所で、ずっと立っておられました。自分が困っているかどうかが認識できず、会話がなかなか成立しなかったのですが、夜回りのたびに声をかけるなど少しずつ関係を作りました。ある日、「腰の痛みを何とかしてほしい」と助けを求めてくださったので、医療につなぐことができました。今は治療を受けながら、グループホームに住んでいます。父親の行方はいまだにわかりません。